『碁打ち放浪記』第一話:コザの路地裏にて

コザのアーケード街を抜け、シャッターの降りた土産屋の脇をすり抜けると、雨上がりのぬかるみに小さな看板が立っていた。
「碁会所 一石」──文字は赤土で染まったようにかすれ、読めるかどうかも怪しい。
財布の中には、10円玉が3枚。
ジュースも買えないが、なぜか俺の足はその建物へと向かっていた。
「おう、新顔か?」
中から聞こえたのは、泡盛の匂いをまとったしゃがれ声。
暗がりの中で、白い髭をたくわえた老人が、ゆっくりと碁石を置いていた。
コップに注がれていたのは、紙パックの「残波」。
正気と酩酊の境をさまようような目で、こちらを見ている。
「……三段くらいです」
そう答えると、店内の空気が一変した。
灰皿の横で沈黙していた老人も、机に突っ伏していた兄ちゃんも、一斉にこちらを見た。
「三段だってよ」
「こりゃ、また面白いモンが来たな」
「“あの人”を起こしてくるか?」
ざわつく空間。古い扇風機がカタカタと音を立てる中、
その奥の一番暗い席で、なにやら“別格”の男が目を覚ました──
『碁打ち放浪記』第二話:眠れる獣
扇風機の風が止まったように感じた。
静寂のなか、奥の席の男がゆっくりと身を起こす。
年の頃は五十過ぎ。くたびれたジャージに島ぞうり。だが、ただ者ではない空気をまとっていた。
「……三段だと?」
その声は低く、だが腹に響いた。
男は泡盛の瓶を手に取り、ぐいと一口あおると、無言で盤の前に座る。
「“眠れる獣”が起きちまったな……」
誰かがつぶやいた。
店主らしき老人が、俺を手招きする。
「この店じゃな、“勝った方が泡盛代タダ”ってのがルールなんだ。張るか?」
逃げ道はない。俺は静かにうなずき、盤に向かう。
黒白の石が並ぶ碁盤の前、男の指がぴくりと動いた。
「置かせてもらおうか……三子」
碁石が盤に打たれる音が、乾いた銃声のように響く。
──その瞬間、世界は囲碁だけになった。
打ってすぐにわかる。
この男は、呼吸のように碁を打つ。
一手ごとに読む、いや、読まされる。
自分が打ったはずの一手が、まるで相手の掌の上で踊らされているかのように感じた。
気づけば、厚く構えたはずの右辺が切り裂かれ、中央の模様が煙のように散っていた。
「こいつぁ……死んだな」
隅で見ていた若者が、ため息交じりに言う。
投了の二文字が喉まで出かかったとき──
男が、ふと盤から目をそらして言った。
「……お前、ツブれても戻ってくるタイプだな。気に入った」
そう言って、彼は自分の泡盛を俺のコップに注いだ。
『碁打ち放浪記』第三話:石が飛んだ夜
深夜0時をまわっても、「一石」はざわついていた。
泡盛を酌み交わしながら打たれる碁は、もう勝負というより人生そのものだった。
「兄ちゃん、もう一局どうだ?」
さっきまで隅で静かに打っていた若い男が、血走った目で俺に言った。
声に酔いが混じっている。いや、碁に酔っているのかもしれない。
「いいすよ」
碁盤の前に座ると、すぐに空気が変わった。
打ち筋が、荒い。呼吸が速い。
──これは、何かを賭けている手だ。
そして十数手目、相手が石を打ち終えたその瞬間──
「ふざけんなこのヤロー!!」
ガシャアァン!!
男が碁盤をひっくり返した。黒白の石が空中に舞う。
俺の目の前に、白石が一つ──ゆっくりと転がった。
「オレの二眼返したろ!?おい、見てたかオヤジ!!」
怒鳴る男の声に、常連たちがざわめく。
誰かが「あいつ、またか……」とつぶやいた。
そのとき、例の“あの人”が立ち上がった。
泡盛の瓶を握ったまま、ゆっくりと歩いてくる。
「石を飛ばす奴に、碁を打つ資格はねえ」
その言葉が落ちると同時に、碁会所の空気が凍った。
男は一瞬たじろいだが、次の瞬間──“あの人”の足元にひざまずいた。
「……すみませんでした」
静寂が戻る。
「兄ちゃん」
“あの人”が俺を見て言った。
「明日、特別な勝負がある。お前も出ろ」
つづく。